書評サンプル1
『建築は兵士ではない』鈴木博之
不可欠な建築へ 市川紘司


近代建築史家・鈴木博之による建築批評集。主に70年代後半の『室内』や『都市住宅』へと寄せたテキストが時代順に編さんされている。基本的には「時評」という形式に則りながら、同時代の建築家への批判や歴史様式の今日的在り方、80年代以後の<地霊>論へとつながるゲニウス・ロキ概念への言及など、取り上げる話題は様々である。

通読することで浮かび上がってくる特徴は、そのテキストを形づくる、言葉の様相だ。当時の建築ジャーナリズムを賑わす「空語を弄ぶ」「衒学的な」建築批評への批判が本書中で実際に記されているとおり、その論評は常に具体的で非常に歯切れが良い。建築家ではなく在野の理論家でもなく、著者は東京大学という日本の中心に籍を置く正統のアカデミシャンである。本書が収めるのはそんな歴史家としての立場から、状況とは一定の距離を置きつつも、しかし切実にそこへと投げかけられたクリティカルな言葉である。ここには建築批評の一つの達成を見ることができると、書評者は思う。

とりわけ建築保存に関する論述に、力点は置かれているように感ぜられる。70年代、二度のオイルショックを受けながらも、都市は快調に高層ビルを乱立させ、その領野を拡張し続ける。建築家が建築を、技術やプログラムによって根拠づけられた社会的生産物としてではなく、広義の文化的行為として(私的に)フォルマリスティックに展開する一方で、街々を形成してきた生活や建物がたしかに失われはじめていた。藤森照信によれば、我が国の建築ジャーナリズムにおける初めての建築保存論の特集も、鈴木の手によるものであった。最も具体的で切迫した問題が、そこにあったのである。

ともあれ本書を貫通する問題意識は、最も早い時期(1974)に書かれた、冒頭のテキストにすでに折り畳まれていると言ってよい。「建物は兵士ではない」という強く目を惹くタイトルを掲げる、その内容を見よう。

「建物は兵士ではない」とは、アメリカ建国期における原住民を蹴散らす白人のフロンティア・スピリットとその根幹に息づく18世紀以来のヨーロッパ中心主義的思考、そしてその見事な建築的反映であるインターナショナル・スタイルに投じられたテーゼである。つまり「近代的なもの」への批判である。このとき「近代的なもの」とは、人や土地のそなえる個別的な記憶の堆積 —すなわち「歴史」を、「空白」と見なす意識に集約される。

ポール・ヴァレリーによれば、「空白」の意識とは、例えば19世紀のドイツ軍人モルトケ元帥の「不可欠な人物としては死なぬ」という考えに象徴的に示される。つまり英雄や天才は必要ではない。そのような偶然的で不確定な要因を度外視した「」をこそ求めるべきである、というわけだ。「」によって兵士は個別性を剥ぎ取られる。兵士が不可欠な個人としての人格を失い、交換可能な機能としてのみ存在を許される、そのような事態を、ヴァレリーは「方法的制覇」と呼んだ。兵士を建築物という「モノ自体」、「」を「機械のイメージ」と言い換えれば、著者の論点は明白だろう。「機械」というイメージとの整合性を、個別に存在する建築物の超越的な尺度とすることにより、「歴史」からの遊離を図ったのが近代建築のコンセプトだったのだから。

ところで、「兵士」という比喩のもとに「近代的なもの」への批判的態度を表明することは、おそらくその態度を最も先鋭的に顕した建築家の一人だろう、クリストファー・アレグザンダーにも見られる。1960年に書かれた「革命は20年前に終わった」では、オリジナリティを築き上げる少数の近代的天才=パイオニアを「英雄崇拝」して「兵隊のまねごと」をするかのように追従する姿勢が、熱っぽく批判される。ここで為される「大多数のまずいデザイナーに注意を向けるべき」だという指摘は、その後の『パタン・ランゲージ』や「都市はツリーではない」などで知られるアレグザンダーの活動を、人や土地のそなえる個別性を徹底的に汲み取るような「新たな」の模索として、再認識させるだろう。

ただし、鈴木が歴史家であることも考えれば、「建物は兵士ではない」というステートメントは、近代建築を絶対の到達点として全建築史を再編集する、「ウィッグ史観」的な近代建築史の姿勢への批判ともなる。ヴァレリーによる「方法的制覇」への疑義が執筆されたのは19世紀末。それは歴史家としての鈴木の主著『建築の世紀末』(1977)が題材にした時代でもある。19世紀とは「建物が、安定した魂の拠りどころであることをやめ、つぎつぎに建て替えられてゆくべき存在に変わり、建物から人間の営みの安定したぬくもりが消え、人の手ざわりが失われてゆく」時代であり、近代建築が勝者として都市を制圧する過程そのものであった(『建築の世紀末』30頁)。

そして「建物は兵士ではない」という「近代的なもの」への批判的態度は、「建築への建築論」ではなく「建築からの建築論」を要求する。これは70年代末にセンセーショナルに登場した『モラリティと建築』と近しいはずだ。デヴィッド・ワトキンによるその歴史書は、「建築以外の何ものか」(宗教、政治、社会学・・・)に自身の存在根拠と理想を求める近代建築の嗜好を「倫理」と呼び、痛烈に批判するものであった。この「倫理」こそ「建築への建築論」と鈴木が批判するものの別名ではないだろうか。

「われわれは建築を、具体的に頭に思い浮かべながら、言葉を選ぶべきなのだ」(本書17頁)。理念、イメージ、未来といった遠く離れた地点に向けて建築論を組み立てるのではなく、「すでに前もってそこに暮らすものたち」から建築の言葉を紡ぐこと。そのとき、思考は自ずとその建築の存立する「外部」を要請するだろう。だからむしろそのためにこそ、建築の「内部」すなわち建築論を実直に突き詰めるべきである。「建築からの建築論」とは、そうして建築を個人にとり社会にとり「不可欠」だとされる存在へと導く、あまりに真っ当な考えに他ならない。 

 

 

 


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