書評サンプル2
『20世紀建築研究』20世紀建築研究編集委員会 編
経験的記述のトライアル・シューティング 菊地尊也


大味の説明が許されれば、「20世紀建築」は、機械技術を求めて様式を捨てた近代が、「現代病」をこじらせるまでの断続的な運動の隠喩である。羅患したら最後、現在のうちに現在に注釈を付せずにはいられなくなるこの病は、「20世紀建築」の全体像を20世紀のうちに語ってみせるという遠大な構想を掲げる本書の書き手たちの内にも、当然ながら潜伏している。このことに十分自覚的でなければ、彼らの身振りは時代の徴候に対する単なる徒手空拳であったと診断されても仕方ない。これを回避するために、本書の構成は注意深く採用された。平面図によって全体を俯瞰することはせず、複数の局所的な断面図から群像ひしめくパルプフィクションを描きだしてみせること。今は去りし世の末に霧散してしまった「20世紀建築」を記述するためには、それはうってつけの方策だったと言えよう。

【設計仕様】
本書の編さんを中心的に担った五十嵐太郎は、このような特徴の本書を、以下のように記している。「本書の特徴は、20世紀の全体を時代順に区切るのではなく、テーマ別、すなわちときには絡み合う複数の系(セリー)によって構成することにある。ゆえに、これは一直線に進化する目的論の建築史ではなく、斜めに読む建築史と言えるかもしれない」(2頁)。

さて、こうして用意された「素材の系」「批評・引用の系」「住宅の系」など、全21の系は、内容の重複や取りこぼしを許すきわめて出来合いの構造をかたちづくる。そこには各記事が自律しつつも連関するための要素が意識的に埋め込まれている。近代建築の父母であるがゆえ、固有名自体が1つの系としてスピンアウトしてしまった「コルビュジェの系」「ミースの系」などは、その意志が最も肥大化した症例だ。複数の書き手によって多面化されていく確定記述や固有名は、読み手が各系を滑らかに交通するための「タグ」(はてなダイアリーの自動キーワードリンクのごとく)として機能するだろう。

乱切りされた「20世紀建築」の諸断片が、「タグ」によって緩やかに繋がれていくことで、先の出来合いの構造は安定化される。この戦略は、本書の続編的位置付けとも捉えられる五十嵐による編集作『建築の書物/都市の書物』(1999)や、『建築・都市ブックガイド21世紀』(2010)においても継承されている。

しかし似た構えを採りつつも、これら後続作と本書との間には明らかな相違がある。後続作は、対象を徹底してフラットに取り扱い、「書物の系」とも言うべき一つの全体(系)の解像度を上げることで、設計仕様(マニュアル)的なものを目指していく。その一方で本書には、書き手らの設計思想(イデオロギー)を明示するために、「19の系を二つの系が挟み込む」という階層構造が用意されている。すなわち、「建築の終わりの系」と「21世紀の終わりの系」である。

【設計思想】
特権的な二つの系には「日本」という強力な「タグ」が設けられ、相対化された「20世紀建築」が描かれる。

『趣都の誕生—萌える都市アキハバラ』(2003)などで知られる森川嘉一朗がすべての論考を担当執筆した「建築の終わりの系」は、「退行建築論序説」という挑発的な副題のとおり、表象するべき大きな物語(イデオロギー、国家、公共性、マス・イメージ)を喪失した建築の行く末を黙示する。虚構の現実化された空間(ディズニーランド)を漂流する「20世紀建築」は、いずれ現実が虚構化してしまったサティアンへと至る。「表象力をもたず、そのことによってのみ虚構性が表される」と森川が記述するそのイメージは、彼が後に論じる秋葉原のルーツでもある。

一方、五十嵐と石崎順一による「世紀の終わりの系」は、皇居建築、ヒロシマ、国会議事堂、新宗教、伝統論争といったイデオロギッシュな題材を取り扱う。「日本的なるもの」の確証となるはずの起源の転倒を受け入れ、反復的にそれを想像しなければならないという「日本」建築の性癖は、本書がとりかかるべき最大のミッションである、「20世紀建築」の全体性を記述するための問題にも通底している。

ここで「日本」を取り出してみせる彼らの手つきには、「タグ」がひしめく雲のような「20世紀建築」の上に、自分たちの興味・関心を移植せんとする意志が見え隠れする。この外科手術によって、いちど安定化された構造は再構成され、全体性の自動生成は挫かれる。角度を変えて見返せば、経験的な記述こそがそこでは重視されていたことがわかるだろう。

設計仕様を読みこみ、そこに設計思想を書き足すことによって、若い研究者や建築家による歴史の追体験は達成される。「20世紀建築」ではなく「20世紀建築(1998、日本)」という疑似的な歴史を遊歩し、追撃し、次のステージへ進むことこそが、書き手/読み手には期待されている。
   
【設計演習】
ところで、「20世紀建築」から脱した現在の私たちには、「20世紀建築(2010、日本)」を記述することが可能だろうか。ポストモダンの病理の進行は、情報環境の台頭によって加速している。たとえば、「タグ」の機能を実装するグーグルのおかげで、教養(本書でいえば設計仕様)的なものを築こうとする努力は不要となり、私たちは現代に対して(今まさに、この書評に私見が開陳されていくように)、より容易にコメントできるようなった。この状況下で「20世紀建築(2010、日本)」の手応えを確かめていくためには、もはやこれを実地で経験するしかない。現実の虚構化が浸透してゆくなかで、歴史の疑似体験ゲームと現実の戦場の境界線は極めて曖昧になる。

「20世紀建築(1998、日本)」こそが「20世紀建築」だったのだろうかと、問うだけの余白はまだ残されている。その手始めに、正規の市場から途絶え、ネット上でのコメントも少ない本書のような絶版書籍をダシにして、根も葉もなしに、独自の舞踏を踊ってみようではないか。

ただし、これは訓練ではない。
 

  

 

 

 

 


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